
木之内 裕介木之内裕介は、「感謝すること」を使命として掲げています。
なぜ、木之内裕介が感謝することを使命として掲げているのか、その理由を聞いて頂けますか?
高校現役時代、全ての大学受験に失敗した私でしたが、世の中の役に立つ製品を生み出す技術者になりたい、という夢を持ち、1年間のつらい浪人生活を経て、晴れて工業系の大学に進むことができました。絶望から歓喜へ、色々と気持ちの変化があった1年間でした。大学1、2年生の時は、特に成績が良いわけではありませんでしたが、アルバイトに、学生生活に充実していました。
しかし、大学4年生の時、大学を中退したいんだ、と両親に相談したときです。
父親に 「おまえにはあきれたよ、まったく」と言われました。
私は、「一生懸命やってるんだ・・・。でもなぜか行動することができないんだ…」
そのとき、私は心の中で自分自身に叫びました。「本当に情けないな…」
私は大学を中退し、まず何か仕事をしようとしました。 本当に両親(特に母親)には申し訳ないな…という気持ちです。その申し訳ない気持ちから、私は母親と同じ仕事(営業)に挑戦することにしました。
私は、小さい頃から母親の言動が理解できず、苦しんでいました。なんで、お母さんは、いつも夜遅いのだろう。なんで、お母さんは、いつもやかましいのだろう。なんで、お母さんは、礼儀にうるさいのだろう。なんで、お母さんは、他人のことばかり気にして僕のことを気にしてくれないのだろう。なんで…、なんで…。私は大学を卒業する間際になっても、母親のことを本当の意味で理解していなかったのです
だから、母親と同じ仕事(営業)をやれば、母親と同じ苦しみや喜びが分かり、母親の気持ちが分かるのではないかと思いました。私は、大学在学中、親に頼らず1人で生きていけると思っていました。両親が、大学に行くまで何不自由なく育ててくれ、学費、家賃、月々の小遣いに至るまで出してくれていたのもかかわらず、それを当たり前の事だと思っていました。居酒屋のアルバイトには、4年間精を出していましたが、日々の生活では勉強を怠り、具体的な将来の事も考えず、なんとかなるだろう、と考えていました。
生きる方向性を失ってしまった私は、大学を中退してすぐ、建築系の仕事を半年間、ほとんど休みも取らずにガムシャラに働きましたが、最後は逃げるように辞めてしまいました。今では、なんて自分勝手で傲慢な人間だったのだろうと思います。
後で聞いたことですが、私が大学中退した後も、母親は学費を払い続けていたそうです。今でも払い続けています。それを聞いたときは、思わず声を出して泣いてしまいました。それと同時に、自分自身がすごく情けなくなりました。
それから私は、感謝する気持ちを持つようになりました。父親は、私のことを大変だろうと思い、仕事に関して、親身になって色々と相談にのってくれましたが、私は人の役に立ちたいという思いで、営業という職業に挑戦しました。
すると、母親は、話をよく聞いてくれるようになり、時には私自身を認めてくれるようになりました。
私は小さい頃から母親の背中を見ていたので、母親のように絶対に苦労したくない、営業だけはやりたくないと思っていました。
しかし、大学在学中、将来安定している工業系の技術者になろうと思っていた私が、大学を失敗して、母親と同じ営業というまったく逆の仕事をやることで、母親の苦しみや喜びも分かるようになり、自分の人生の考え方や視野も広げることができました。
実家に帰ってからも、もう一度東京に行って成功したいという気持ちを持っていたので、それを告げた時、温和な父親が珍しく激しく怒りました。
「おまえにひもじい生活させたくねぇ」今でもこの言葉は私の頭の中に残っています。
この体験から、私は「感謝の気持ち」を私の使命として掲げることにしました。出会うお客様ひとり一人に「感謝の気持ちを忘れることのないよう、この言葉を私の命の使い方とし掲げていきます。